伝わる朗読とは?

2016年6月20日 (月)

【伝わる朗読とは】22:朗読するために作品に手を加えること

朗読会で1つの作品を朗読する時、どれくらいの時間の長さが適当なのでしょう。
私は、1つの作品で20~30分くらいが限度なのかなと私は思います。それは、聞き手の集中力を考えると、30分を超える朗読は、さすがに聴けなくなってくるだろうと思うのです。

朗読会などで、長い文学作品を朗読するとき、長いがために文章を短くして朗読するようなケースがあります。これは、原則としてやらない方がよいと私は考えています。
作品の中のある章や段落といった部分をカットしてしまう形なら、まだよいと思います。しかし、文章を要約してしまったり、違う言い回しに変えてしまったりするのは、よくないと思っています。それは、原作者の文章に手を加えることになり、書き換えた時点で、その作品が文章を書き換えた人のものになってしまうと思うのです。

文学作品は、話の内容、筋道以外に、文章の美しさ、流れ、リズム、雰囲気といったものがあります。そういう表現の部分が優れているから、人々の心に伝わる文章なのだと思います。
朗読する場合にも、その作品の持つ独特の表現(リズムや雰囲気)を声で表現することになると思うのです。そこが朗読の肝となるところでしょう。だから、内容(話の筋)を伝えるために、文章を短くし、さらに文章に手を加えてしまうのは、極力避けるべきではないかと思うのです。朗読する時に、作者が推敲を重ねて紡ぎだされた文章を変えてしまってよいものなのかと思います。

様々な作家さんの作品を声に出して読んでみると、「この人の文章は読みやすいな」とか、「情景の表現が特別だな」とか感じることがあります。それが、その作家さんの文章の言い回しやリズム、美しさにあたるのではないかと思います。そして、その文体の好き嫌いが、作品の好き嫌いにつながることもあります。そういう文章の独特の味というものを伝えるのが朗読の仕事なのではないでしょうか?

詩を朗読するような場合、難解な比喩表現だからといって、分かりやすいように別の言葉を読み代えて読んだりすることはないと思います。ましてや詩の数行を抜かして読むことはないはずです。詩自体は、言葉を削いでいって、残ったものだと思うので、それを第三者が手を加えるなんてできないことです。
宮沢賢治の「木はごとんごとんと鳴りました」という表現は、「ごとんごとん」に味があるのであって、それ以外の表現はないのです。「ごとんごとん」がイメージを膨らませてくれるのです。
やっぱり、原文そのままで読んで味わうのが一番いいのだと思います。そして、その文章を朗読でうまく伝えられるとよいのです。

もし、要約をしたものを朗読するのなら、これは、原作に手を加えていますということを明らかにしておくべきなのではないかと思います。翻訳本で翻訳者の名前が書かれ、映画や芝居で、脚本家や監督の名前がでるように。

でも、やっぱり、原作は原作のままで朗読するのが一番だと思います。
時間が長くて朗読会では読めないのなら、そういう作品は選ばない。
敢えて短くするなら、部分をカットして、話がまとまらなくてもよしとする。
内容を伝えたいために文章そのものに手を入れるようなことはしない。
要約して、文章表現に手を入れてしまっては、原作者が作品に込めた思いがなくなってしまうと思うのです。朗読は、原文そのままを読むのでよいと思うのです。その文章をそのまま伝えるのが朗読者の役割。
もし中途半端で話の筋が伝わらないものでも、朗読を聴いた方が、全部を聴きたくなって、
原作を手に入れて、目で読むということになることもありましょう。

#この話は、賛否両論あるとは思いますが・・・

2016年6月11日 (土)

【伝わる朗読とは】21:翻訳する

文学作品を翻訳して伝えるということって、とても難しいと思います。
日本人が日本語で書いた文章を英語に翻訳して英語圏の人が読む。
これで、元々の日本語の文章のイメージが本当に伝わっているのでしょうか?

逆に外国語の日本語訳の本を読むと、それはそれで伝わってくる。
俳句も翻訳されてます。
あの五七五の日本語の言葉の感覚をどんなふうに違う言語で伝えているのだろう。
選びだされた短いワードと全体のリズムを伝えられるなんて、翻訳する人はすごいなと思います。

これは、その翻訳者の力量によるところが大きいと言えるでしょう。誰でも翻訳しようとすれば、翻訳することはできます。私だってできる(はず)。ただ、それが、伝わる翻訳であるか、さらには、原文の持つ力というのをちゃんと伝えられる翻訳であるかという点で違いが大きく出てくるでしょう。

ノーベル賞を受賞した川端康成の作品についても、その選考委員は、日本語では読んでおらず、翻訳されたものを読んで選考したのだと思います。その翻訳が川端作品の魅力を十分に伝えられていなければ、ノーベル賞はなかったはずです。翻訳者の力によるところは大きいと思います。

翻訳するということは、原文とは異なる言語で原作の内容を伝える作業です。そういう変換作業を行って、読み手に伝えているわけです。ある意味では、翻訳された言葉は、原作者の言葉から翻訳者の言葉に変わります。
その言葉の微妙なニュアンスなどをうまく表現して、別の言語で読者に伝えている段階で、それは、すでに、その翻訳者の作品になっていると言ってもいいのかもしれません。

有名な外国の作家のシリーズの作品で、翻訳者が違うと、なんとなく違う感じがしてしまう。この作家には、この翻訳者って決まっているように思います。

さて、朗読も同じようなことが言えるかもしれないです。
文字である作品を声に出して読むことで、耳で聞いてもらって、作品を伝える。
原作者の言葉を声の形で翻訳することによって伝える。
読み方、声の色はそれぞれ違う。
声を駆使して、朗読の形で翻訳する。
朗読とは、声で翻訳している行為なのかもしれないです。
そして、この作品は、この朗読者だよねーと言われるようになれるとよいです。

2016年4月23日 (土)

【伝わる朗読とは】20:音で演出する

前回は、読んで五感に訴える力の大きい作品は、朗読に向いていると書きました。
このような作品を朗読するときは、叙事をめざすのではないかと思います。語り手が感じたように読むのではなく、聞き手が情景をイメージできるように読むという感じでしょう。例えば、情熱的な文章と感じたら、文章も熱っぽく読むというのは違うのではないかと思うのです。かといって、淡々に読むのではないけれど、あくまで第三者的な視点も持って読むという感じでしょうか。

朗読会では、よく生で音楽を入れて演出をすることがあります。
BGMとして、音楽を入れる。話に合わせて即興的に音楽を入れてもらう。などなど。
それはそれで、聞き手への伝わり方に良い効果を生み出すものだと思います。

しかし、私は、音楽と一緒に朗読するのは違う気がしています。正しく言うと、音楽と一緒に朗読することと音楽なしで朗読することは、違うパフォーマンスだと思うのです。
物語の内容やシーンから、明るい話や暗い話と判断して、演奏家の人が作品の雰囲気に合わせた音楽を流すのは、まさにその雰囲気という叙情を音楽で伝えることとなり、聞き手側に演者の思いを押しつけることになるような気がするのです。

そして、音楽で朗読の言葉が負けてしまうこともあるでしょう。これは、音量の違いというのでなく、音楽を聞くと、その音楽を感じてしまい、朗読された言葉を聞くということがおろそかになってしまうのではないかと思うのです。
聞き手にとっては、今、聞いているこの話は、今、聞いている音楽のように明るい感じなんだなという感覚だけで満足してしまい、朗読している言葉は聞いてもらえない状態になるという気がしています。演奏家が音楽をつけてくれる朗読会は、実は、演奏会になってしまっていないかと思うのです。

場面展開の時や効果音的に、要所要所で音を出すという程度なら、聞き手の意識の転換を促す点で、より朗読を聞いてもらえる効果が出るのではないかと思います。
前回の「羊と鋼の森」で言えば、調律師が調律しているシーンを朗読で聞いているときに、実際のピアノの音が聞こえてきたら、もしかしたら、これは、いい効果があるような気がします。
前のブログでは、物語を目で読んでいる時にピアノの音が聞こえると良くないと書きました。今回は、朗読で物語を聞いている時のピアノの音は良いというのは、ちょっと話が違いますね。
これは、目で読むという行為には、音を聞く行為が邪魔と感じてしまうのかもしれません。耳で物語を聞いているときは、音を聞くことには障害はないが、その音も、事象を示しているのならいいけれど、情景を示すような音(音楽)は、聞き手がイメージするときに障害がでてくるのではないかと思います。でも、これも、私の感じることですから、他の方には違った感覚になるのかもしれません。

もちろん、音楽と朗読をコラボした朗読会はあってもよいと思います。たぶん、聞き手には伝わりやすいものになるでしょう。ただ、本当の意味での朗読が伝わっているかといえば、音楽の力に頼っているのだということを意識している必要があると思っています。

自分も言葉だけでちゃんと伝えられるようにしたいと思っています。

2016年4月16日 (土)

【伝わる朗読とは】19:五感に語りかける作品

4月は変化の時期。私も仕事のペースが変わってしまい、少々お疲れ気味。
そのため、木曜日の更新はできませんでした。
すみません。うまく伝わるように書くというのも大変なことなんですよねー。

=====

先日、本屋大賞というのがニュースでやっていました。1位になった作品「羊と鋼の森」について、テレビなどでいろいろとコメントが出ています。
ピアノの調律師の話ということなので、
「ピアノの音が聞こえてくるような文章・・」
「ピアノの演奏家ではなく、裏方である調律師にスポットを当てた・・」
とか・・
私は、この物語を読んでいないので、感想を述べる立場じゃないですが、一般的に読者にとって良い作品は、読むと、
・映像が目に浮かぶ。
・音楽が聞こえてくる。
・匂いがする。
・何かを感じる。
といった感じで、何か五感に語りかけるものなのではないかと思います。

ピアノの音は、物語を読んでも聞こえては来ません。
でも、この作品は、読むと音が聞こえてくるような文章になっているのでしょう。

もし、このお話を読んでいて、調律師が調律している場面に差し掛かったら、実際のピアノの音が聞こえてきたらどう感じるだろうかと思いました。
そうすることで、より物語に入り込めるか、リアルに感じるかというと、それは、ちょっと違うと感じてしまう自分がいます。
物語の中の言葉から、心の中で響く音があるので、その状態で、実際のピアノの音も聞こえてしまうと、それが心の中の音を邪魔してしまうような気がしています。
ドの音だと感じていたら、聞こえてきたのは、ラの音だったという感じです。
実際の音の方が、言葉から想起される音より直接的に伝わってくるからでしょうか・・

本を読むということは、聞こえていない音を自分の思い通りに感じる面白さがあるからこそ楽しいのであって、本当に聞こえてしまったら、興ざめすることになるのかもしれません。
でも、そういう音が聞こえる方がよいと感じる人もいるかもしれません。本を読むと、その場面に合わせた音が出る電子ブックみたいなのは、すでにでているのかもしれないですね。

そして、朗読について考えれば、目で読んで五感に訴える力の大きい作品の方が、朗読でも伝わりやすいものだと言えると思います。
声の響きで、五感で感じとる感覚をさらに助けるという感じでしょうか。ピアノの音を感じてもらうために、物語の中の言葉を声に出して、その声の出すリズムや間の取り方で、その音を聞き手の頭の中に感じてもらうことになるのではないかと思います。

・・・つづく。

2016年4月 7日 (木)

【伝わる朗読とは】18:写真に詩をつける

桜が満開。おそらく、今日くらいで、今年は見納め。写真をUPしても良いかもしれないけど、今日のお話のテーマから、写真は載せないのでした。

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前回と同じく、吉野弘さんの詩集のあとがきから気付くことです。

 写真に詩をつける上で一番苦労したのは、こちらの関心事とは無縁な光景が私の目の前に現れても、それに関心を寄せること、そこから、一種の”ほめうた”を生み出してゆくことであった。拒絶や無視からは、私の場合、詩が生まれないからである。
 写真に詩をつける上で、もう一つ苦労した点は、写真に写っていることを言葉に代えるだけでは詩にならず、写真に写っていないことを、写真の中から読みとって、詩にすることであった。詩が写真の中に埋没せず自立するためには、そういう作業が必要だったのだ。
「吉野弘 全詩集」収録詩集覚えがき

吉野さんが、ある会社の社内誌の企画で、社員の投稿した写真に詩をそえるという仕事を毎月していたそうです。その「写真に詩をつける」ことの難しさを語ったものです。

投稿の写真ですから、詩にしたいと思う題材ではありません。
当初、写真からは何も感じなかった状態から、しばらくすると言葉がやってくる。
題材となる写真をイメージとして刷りこんでいくと、言葉が表出してくるという感じなのでしょうか。

そして、2つ目の難しい点として挙げている「写真に写っていないことを詩にする」という話には、ハッとさせられます。
写真という映像情報は言葉より多くのことを語ります。百聞は一見に如かず。
写真にさらに言葉で情報を加えようとしたら、言葉の方が呑まれてしまうという感覚。わかるような気がします。
写真自体には、それだけで十分伝えることがある。それに言葉を加えるのは無意味。
「写真で伝えていないところを伝える」
その言葉はとても質の高いものなのではないかと思います。

朗読でも同じようなことが言えるのかもしれません。物語や詩には、それを目で読むだけで、伝えることができる。朗読は、物語の言葉の中に書かれていないことを伝えることなのかもしれません。

これまでのブログでは、詩作と朗読を無理に結び付けて書いているようなところがありますが、どうも関係性があるような感じを持つのです。

質の高い文章というのは、字数の少ないにもかかわらず、情報量が多いものなのだと思います。言葉の選び方、順序、作品全体の文章の構成などなど。作品の中の言葉以外の情報が導出しやすく、様々なイメージが出やすい文章。だからこそ、多くの方に読まれるものとして、つまりは、伝わるものとして世に出ている。だからこそ、文章を書く作家というものがあるのですから。
そういう優れた文章の中に、言葉としては書かれていないことを、「朗読」というものが、伝えやすくする手助けをしているのかもしれないです。
イメージ化をしやすくする。そのための語り方。朗読の仕方。響き、抑揚、間の取り方。そんな役割が朗読にあるのかもしれません。

これまで、吉野弘さんの書かれたものから起因して、詩作と朗読について、書き綴ってきました。ただ、「朗読」に求められていると思われることを書いてきているだけで、では、どうしたらよいのかまでは書けていません。明確な答えを提示できず、絵に描いた餅を見せているだけかもしれません。でも、漠然と言葉を読むのではなく、その目的や意図を意識して、方向性を定めることは大切なのだと思います。なによりも、朗読が好きだから、何かの方向性を求めて、いろいろと思いを巡らせることで、答えはいつか自然と降ってくるのだと思うのです。

2016年3月31日 (木)

【伝わる朗読とは】17:朗読会は自己満足の自殺行為

さて、今日で3月が終わり。4月は新たな期が始まります。私は異動で、4月から違う仕事に変わることになりました。仕事の質が変わりますので、気持ちの面でも少し変わってくるところがあるかもしれません。それは、自ずと朗読にも変化が出てくるのかもしれないです。

====
さらに「言葉では、すべてを語りきれない」というテーマで、ネットをさまよっていたら、こんなことばに出会いました。

朝日新聞に掲載されたものを引用しているブログに行きつきました。
朝日新聞2012年1月24日夕刊に「現在の詩人を痛烈批判/同業の荒川洋治、著作で」

朗読会は自己満足の自殺行為

「詩の世界から批判がほとんど消えた。互いに傷つきたくないから論争は避け、仲間同士で支えあっている。1970年代の終わりまで、僕は何を書いても徹底的に批判された。批判こそが元気のもとだった」

ブームの朗読会は全面的に否定する。

「文字言語を選び、闘ってきた詩にとって朗読は自殺行為だ。朗読を意識したら詩の言語が甘くなる。すぐれた詩には文字の中に豊かな音楽性があり、それで十分。文字を通して音楽性を感じる力が弱まったから声で演じたくなる。文字言語を通して考え、味わう力を詩人が捨てたら詩に未来はない。朗読はやめて討論しよう」

うわべだけの国際交流とは、日中・日韓などの詩人による討議をさす。

「内なる問題には目を向けず、文化交流に走る」

荒川は、最近の強力な新人は詩の外の世界から現れると指摘する。作家の辺見庸や川上未映子、歌人の岡井隆のように。

「別の言葉で仕事をしてきた人が、詩の言葉でしかできないことを意識し、詩の形式を選ぶ。その黒船が放つ大砲の迫力に、詩の内側に習慣的につかっている僕らはかなわない」

詩が読まれなくなった、といわれて久しい。だが詩人は今こそ幸せなのだと逆説的に語る。

「読むに値する詩は少ないから、詩を厳密に読める人が増えたら詩人は困る。しっかり読まれたら、終わりです」

荒川は、東日本大震災の後に書かれた震災詩の一部についても詩の言語が軽いと断ずる。

「大量の、しまりのない、たれながしの、ただの饒舌としか思えない詩が書かれ、文学『特需』ともいう事態を引きおこした。詩の被災だ」

70年代初めに文芸評論家の粟津則雄は、詩の言葉に奇妙な浮力がついてきたと書いた。言葉を生活や精神のなかに投げこんでも深く沈まず、あぶくのように浮きあがる。そんな不安感の表出だった。

「浮力は現代詩全体におよび、今では詩に限らず言葉全体に浮力がついている。もう一度言葉に重みを与えるために格闘しなければならない」

宮沢賢治の神格化を戒めるなど、荒川は自らを律しながら、詩と詩人の現状に対して厳しい言葉を発しつづけてきた。その批判を、詩人たちはどう聞くのか。

(朝日新聞2012.1.24)

結構、強烈な言葉なんですけど、ここで述べられているのは、詩人による詩作についての批判だと思います。この話にも、「朗読することとは?」に関するメッセージが見えてきます。

氏は詩の言葉の中に安易な表現が多すぎることを批判しています。そういう読むに値しない詩を、詩人たちの「自己満足と自己陶酔の朗読会」で伝えようとしているのを批判しています。

「朗読を意識したら詩の言語が甘くなる。すぐれた詩には文字の中に豊かな音楽性があり、それで十分。文字を通して音楽性を感じる力が弱まったから声で演じたくなる。」

これは、詩の文字の中で表現できていないところを朗読で補完するのでなく、詩の言葉だけで伝えられるように詩をちゃんと作ろう、言葉を洗練させようということなのだと思います。
であれば、逆に考えると、氏の言う安易な詩は、朗読することで、その詩の言葉の中では伝えきれていないことを補完できると言えるのではないかと思うのです。だから、文字を読むだけで伝わることの他に、朗読することで伝わることがあると言っているのだと思います。

また、すぐれた詩であれば、その中の豊かな音楽性を感じ取ることができるので、それを朗読することで、さらに詩の世界を伝えることができるのではないでしょうか?
それには音楽性のある詩、文字言語を選び、闘ってきた詩を見つけなければなりません。
そして、そういう詩は、「自己満足と自己陶酔」で朗読するのではなく、自ずと「文字の中に豊かな音楽性」を持っているのだから、その言葉を「単に読めば自然に伝わる」ものになるのではないかと思います。

この1月に、私が出場した吉野弘の朗読コンクールでは、読む詩を出場者が選べました。私の読んだ「愛は人々の上に」という詩は、何を読もうかいろいろ考えていて、たまたま求めた”妻と娘二人が選んだ「吉野弘の詩」(青土社)”の中に載っていたものでした。しかも、本編ではなく、娘さんの久保田奈々子さんがあとがきに載せた詩だったのでした。あとがきの中の説明では、この詩は、吉野さんが亡くなられた後にご自宅の書斎から出てきた手製の詩集に収録されていたものと書かれていました。出版されている全集には載っていないものなのでした。
私はこれを読んだ時、とてもストレートに伝わってくると感じ、「たぶんこれを読むのが良い」と何か自然に感じたのでした。たぶん、この詩が、豊かな音楽性を持っていて、そういう詩だったからこそ、朗読するとよく伝わるものだったのかもしれません。その意味では、私は、コンクールで、よい詩を選んだのかもしれません。

2016年3月30日 (水)

【伝わる朗読とは】番外編:西村さんとの朗読談義

今回は番外編です。
私が参加している「朗読カフェ」のメンバの西村俊彦さんのブログにお邪魔して、朗読談義をしていますので、もしよろしければ、お読みください。

びょうびょうほえる~西村俊彦のblog

西村さんが、朗読実験として、朗読にBGMとして音楽をつけたYouTube作品をあげてます。それを聞いた私のコメントへの回答です。西村さんのお話からも、いろいろ気付かされること多いです。今後の展開に期待したいと思ってます。

2016年3月24日 (木)

【伝わる朗読とは】16:耳からよむ

ブログにコメントがついて、いろいろと考えるテーマが増えてきました。一人ではなく、いろんな視点で見ていくと、よいものが見えてくるのでしょう。
今週は、木曜更新できました!

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「言葉では、すべてを語りきれない」というテーマで、ネットをさまよっていたら、こんなことばに出会いました。
詩人の吉原幸子さんのことばです。
facebookに載っていたものを引用させていただきます。

 ことばは紙に閉じこめられて眠っている。
あなたが「みる」とき、それは目をさまし、あなたが「よむ」とき、それは立ち上がりあなたの中に入ってゆく。
 「よむ」ためには、むろん目だけで充分なこともある。その方がいいこともある。だがことばには、形や意味、紙のなかでの沈黙のひろがりの他に、もうひとつ“ひびき”という要素がある。というより、耳から入る意味や形、耳から入る沈黙のひろがり、いわば声によることばそのものの立体化、それが心への近道である場合もある。
 わたし自身、ある詩人たちの肉声をきくことによって、それまではやや遠いものに感じられていたことばであっても、それが急に体温をもち、心にとびこんできた覚えがあるのだ。
 「耳からよむ」というひとつの方法のなかで、あなたをお手伝い出来るかもしれないまたひとつの方法として、私は朗読を考えている。

吉原さんは、なくなられているのですが、ご親族の方が、資料などをFacebookにUPしているようです。生前は、テレビやラジオに出演し、番組で自身の詩や他の方の詩を朗読されていて、その時の素材もYouTubeなどで出ています。吉野さんの詩を朗読されているのもUPされていました。

声によることばそのものの立体化、それが心への近道である場合もある
「耳からよむ」というひとつの方法のなかで、あなたをお手伝い出来るかもしれない

それが朗読ということだと、吉原さんは書かれています。紙の中の言葉である詩を、詩人が読むということで、心に伝わる近道になると述べています。
ならば、詩人でない我々が読んで伝えることもできるのではないか。
「声で言葉を形にして、体温を持たせ、聞き手に伝える」
朗読への答えのような気がします。

という私の話が伝わっているかな・・と思っています。

2016年3月18日 (金)

【伝わる朗読とは】15:叙情が多すぎる。叙事を目指せ

毎週木曜更新で最近は進んでいましたが、昨日の木曜は歓送会があって、飲んでしまったので、更新できず・・・。
3月は、別れの季節です。卒業式シーズンなのか、街を行きかう学生さんの様子も変わってきているように感じます。
では、伝わる朗読の続きです。

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前回と同じく、吉野弘さんの詩集のあとがきから気付くことです。

この数年間の投稿詩選評経験から得たことで、殆どの作品が作者の思いで溢れ、当の思いを喚起せしめた情景や事物の質感は見当たらないことでもあった。選評で、私は屡々(しばしば)、事物を描こうと提案しても、効き目は全くなかった。思いを述べるための事物を借りる詩はあっても、事物そのものから衝動を得て詩に向ったと思われるようなものは、実に寥々(りょうりょう)たるものだった。ここでも私は、「意味づけ」の滔々(とうとう)たる作品群に悩まされ、自戒の意味も加って、自分自身を「事物を描こう」とする方向へ押しやることになったらしい。
(吉野弘「叙景」あとがき より)

吉野さんが投稿詩の選者をしていたとき、その投稿された詩の中には、作者の思いを述べている詩が多いということを述べています。
詩の中に「うれしい」「たのしい」「くるしい」ということばが多かったり、自分の気持ちを吐露する詩が多いということでしょう。そうではなく、そのように感じた事象を詩に書けということでしょう。そして、その事象を読んでもらって、事象から作者の思いを感じ取ってもらえということなのでしょう。これが叙事を目指せということなのでしょう。

詩の中に、うれしい、悲しい、たのしいの言葉はいらない。

詩の朗読会で、心情を伝えるために、泣き叫んだり、怒ったりして読むようなケースがあります。昔、「詩のボクシング」というのがNHKのTV番組で放映されていたのを覚えています。2人が自作詩を朗読して、どちらが伝わるかを競うというもの。それに私は違和感を感じていました。ただ感情のままに言葉を叫んでいるようなものもあり、それはそれで「ボクシング」なのかもしれないけれど、ただ読み手の思いをぶつけられても、聞き手がそれに共感できなければ、それは伝わってこないのです。

このことから思うのは、朗読で伝えるということも、事象をシンプルに語るのではないかということです。朗読では、物語の中の心の動き、心情をそのまま伝えるのではなく、相手の心情をふるわせる事象を伝える。物語の作者が感じたことの原因となった出来事を伝えて、その事象を通して、相手に作者の思いを感じてもらうということではないかと思います。

ここで、以前のブログで書いた脳の意識のこと(顕在意識、潜在意識)が関係してくるように思えます。⇒【伝わる朗読とは】1:聞き手側の意識のこと

顕在意識で「叙事」をイメージ化して、その「叙事」を潜在意識に渡すことで、潜在意識のところで「叙情」を感じるというプロセスです。

2016年3月10日 (木)

【伝わる朗読とは】14:言葉では、すべてを語りきれない

吉野弘の詩 朗読コンクールで優勝して、吉野さんの詩について、さらに深めることが多くなりました。
図書館から全集を借りてきて、その中のあとがきや覚書の記載に、気付くことがあったので、これから数回、このことを書いていきたいと思います。

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吉野弘全詩集を図書館から借りてきました。すべての詩は読み切れてないですが、「ばしばし」と伝わってくる言葉の数々があります。
詩以外に、収録された詩集のあとがきも載っていました。この中に気付かされることが書いてありました。

ここにも、言葉で何かを確かめないと安心できない人がいる。・・・
結局、男が何をどう言っても女を満足させないに違いない。もっともっとと要求するに違いない。言葉には人を満足させない性質がある。言葉は本質的に不十分で不足なものだ。

世の中には、言葉が足らないその分だけ、行為の活力に溢れている人もいる筈なのに、言葉にうるさい人間ほど、そういうことを知らないのではないか。
(吉野弘「北入曽」あとがきに代えて より)

「言葉では、すべてを語りきれない。」ということなのだと思います。いくら言葉を重ねても十分ではない。つまり、言いたいことを言葉で正確に伝えられるものではないということだと思いました。物語であれば、作者は、言葉をたくさん使って、その状況、背景や心情を伝えていく。でも、物語の受け手(読者)に100%伝えることは難しい。

さらに、詩は、ことばを削いでいって作られている。ことば自体が足りないのですから。
でも、読んで伝わるのはなぜか?それは、削いでいったから伝わるものがあるのかもしれません。

「かなしい」「うれしい」と言葉で表現しても、その本当の感覚、心情といったものは、言葉では表現しきれないのだと思います。もしくは、そんな直接的な言葉は使わずに「うれしい」「かなしい」を伝えることになるのだと思います。
人は悲しいときに「かなしい」とは言わないものだから・・・

では、言葉を声で表現することで、それを伝える補助をすることはできるのか?それが、朗読の役割なのかもしれないです。
この場合、語り手(朗読者)の思いというものは、除かれるのだと思っています。あくまで、作者の思いを受け手(ここでは、聞き手)に伝わりやすくするのが、語り手の務めになると思います。脚色しないで、そのままに。

「言葉には人を満足させない性質がある。言葉は本質的に不十分で不足なものだ。」

それを朗読によって補完することはできるかも・・・なんて思うのでした。

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