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2016年6月

2016年6月27日 (月)

第7回朗読カフェLIVEは、2016年9月3日です!

江戸川乱歩の「日記帳」に続いて、「人間椅子」を読みました。
1か月にわたって、朗読CAFE STUDIOにて録音。現在、編集中です。
おそらく、7月初めには公開予定です。 面白い作品ですが、1時間を超えています。

こんな長いものに取り組んだのは初めてです。
5回に分けて録りましたので、うまくつながるものになっているかどうか・・
ともかくも、読めていたのかどうか。
そして、その世界観がうまく伝えられたでしょうか?
いつものことですが、そこのところは気になります。

約1か月間を通して、「人間椅子」の世界に浸っていたためか、 最近は、気分もどんより不気味な感じになっていました。 公開まで、しばらくお待ちください。

さて、第7回朗読カフェLIVEは、2016年9月3日(土)に、いつもの六本木シンフォニーサロンにて開催することになりました。 開始時間は未定。14時からと18時からになる予定。
詳細が決まりましたら、連絡をいたします。
あ、たぶん、私は出演します。読むものは、私らしいものを捜索中です。
お楽しみに・・。よろしくお願いします。

2016年6月20日 (月)

【伝わる朗読とは】22:朗読するために作品に手を加えること

朗読会で1つの作品を朗読する時、どれくらいの時間の長さが適当なのでしょう。
私は、1つの作品で20~30分くらいが限度なのかなと私は思います。それは、聞き手の集中力を考えると、30分を超える朗読は、さすがに聴けなくなってくるだろうと思うのです。

朗読会などで、長い文学作品を朗読するとき、長いがために文章を短くして朗読するようなケースがあります。これは、原則としてやらない方がよいと私は考えています。
作品の中のある章や段落といった部分をカットしてしまう形なら、まだよいと思います。しかし、文章を要約してしまったり、違う言い回しに変えてしまったりするのは、よくないと思っています。それは、原作者の文章に手を加えることになり、書き換えた時点で、その作品が文章を書き換えた人のものになってしまうと思うのです。

文学作品は、話の内容、筋道以外に、文章の美しさ、流れ、リズム、雰囲気といったものがあります。そういう表現の部分が優れているから、人々の心に伝わる文章なのだと思います。
朗読する場合にも、その作品の持つ独特の表現(リズムや雰囲気)を声で表現することになると思うのです。そこが朗読の肝となるところでしょう。だから、内容(話の筋)を伝えるために、文章を短くし、さらに文章に手を加えてしまうのは、極力避けるべきではないかと思うのです。朗読する時に、作者が推敲を重ねて紡ぎだされた文章を変えてしまってよいものなのかと思います。

様々な作家さんの作品を声に出して読んでみると、「この人の文章は読みやすいな」とか、「情景の表現が特別だな」とか感じることがあります。それが、その作家さんの文章の言い回しやリズム、美しさにあたるのではないかと思います。そして、その文体の好き嫌いが、作品の好き嫌いにつながることもあります。そういう文章の独特の味というものを伝えるのが朗読の仕事なのではないでしょうか?

詩を朗読するような場合、難解な比喩表現だからといって、分かりやすいように別の言葉を読み代えて読んだりすることはないと思います。ましてや詩の数行を抜かして読むことはないはずです。詩自体は、言葉を削いでいって、残ったものだと思うので、それを第三者が手を加えるなんてできないことです。
宮沢賢治の「木はごとんごとんと鳴りました」という表現は、「ごとんごとん」に味があるのであって、それ以外の表現はないのです。「ごとんごとん」がイメージを膨らませてくれるのです。
やっぱり、原文そのままで読んで味わうのが一番いいのだと思います。そして、その文章を朗読でうまく伝えられるとよいのです。

もし、要約をしたものを朗読するのなら、これは、原作に手を加えていますということを明らかにしておくべきなのではないかと思います。翻訳本で翻訳者の名前が書かれ、映画や芝居で、脚本家や監督の名前がでるように。

でも、やっぱり、原作は原作のままで朗読するのが一番だと思います。
時間が長くて朗読会では読めないのなら、そういう作品は選ばない。
敢えて短くするなら、部分をカットして、話がまとまらなくてもよしとする。
内容を伝えたいために文章そのものに手を入れるようなことはしない。
要約して、文章表現に手を入れてしまっては、原作者が作品に込めた思いがなくなってしまうと思うのです。朗読は、原文そのままを読むのでよいと思うのです。その文章をそのまま伝えるのが朗読者の役割。
もし中途半端で話の筋が伝わらないものでも、朗読を聴いた方が、全部を聴きたくなって、
原作を手に入れて、目で読むということになることもありましょう。

#この話は、賛否両論あるとは思いますが・・・

2016年6月11日 (土)

【伝わる朗読とは】21:翻訳する

文学作品を翻訳して伝えるということって、とても難しいと思います。
日本人が日本語で書いた文章を英語に翻訳して英語圏の人が読む。
これで、元々の日本語の文章のイメージが本当に伝わっているのでしょうか?

逆に外国語の日本語訳の本を読むと、それはそれで伝わってくる。
俳句も翻訳されてます。
あの五七五の日本語の言葉の感覚をどんなふうに違う言語で伝えているのだろう。
選びだされた短いワードと全体のリズムを伝えられるなんて、翻訳する人はすごいなと思います。

これは、その翻訳者の力量によるところが大きいと言えるでしょう。誰でも翻訳しようとすれば、翻訳することはできます。私だってできる(はず)。ただ、それが、伝わる翻訳であるか、さらには、原文の持つ力というのをちゃんと伝えられる翻訳であるかという点で違いが大きく出てくるでしょう。

ノーベル賞を受賞した川端康成の作品についても、その選考委員は、日本語では読んでおらず、翻訳されたものを読んで選考したのだと思います。その翻訳が川端作品の魅力を十分に伝えられていなければ、ノーベル賞はなかったはずです。翻訳者の力によるところは大きいと思います。

翻訳するということは、原文とは異なる言語で原作の内容を伝える作業です。そういう変換作業を行って、読み手に伝えているわけです。ある意味では、翻訳された言葉は、原作者の言葉から翻訳者の言葉に変わります。
その言葉の微妙なニュアンスなどをうまく表現して、別の言語で読者に伝えている段階で、それは、すでに、その翻訳者の作品になっていると言ってもいいのかもしれません。

有名な外国の作家のシリーズの作品で、翻訳者が違うと、なんとなく違う感じがしてしまう。この作家には、この翻訳者って決まっているように思います。

さて、朗読も同じようなことが言えるかもしれないです。
文字である作品を声に出して読むことで、耳で聞いてもらって、作品を伝える。
原作者の言葉を声の形で翻訳することによって伝える。
読み方、声の色はそれぞれ違う。
声を駆使して、朗読の形で翻訳する。
朗読とは、声で翻訳している行為なのかもしれないです。
そして、この作品は、この朗読者だよねーと言われるようになれるとよいです。

2016年6月 7日 (火)

「伝わる朗読とは?」 続きは?・・

なかなか更新できておりません。
この4月に異動があり、部署が変わりまして、新しい仕事をしております。
これまでの業務と違い、頭を使うことが多くなって、なかなか余裕が取れず、朗読のことを書いている時間がとれません。これまでの仕事で頭を使っていなかったわけではないですが、これまでとは違う思考をせねばならないことに、脳がびっくりしているのかもしれません。

月1回くらい、または、不定期でも更新をしたいと思うので、お付き合いいただけますと幸いです。

これまでは、脳とか意識とか、感情面のところで書いてきましたが、次は理性面のところで書いてみたいと考えています。
どういう作品が聞き手に伝わりやすいかという作品選びのところです。
これも、もしかすると、演劇とかの世界では当たり前なのかもしれないですが、私なりの頭で考えたことをまとめてみたいと思っています。

今年も朗読コンテストの募集が、ぼちぼち出始めましたね。
時間をとりつつ、いくつか応募してみたいと思っています。

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