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2016年3月18日 (金)

【伝わる朗読とは】15:叙情が多すぎる。叙事を目指せ

毎週木曜更新で最近は進んでいましたが、昨日の木曜は歓送会があって、飲んでしまったので、更新できず・・・。
3月は、別れの季節です。卒業式シーズンなのか、街を行きかう学生さんの様子も変わってきているように感じます。
では、伝わる朗読の続きです。

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前回と同じく、吉野弘さんの詩集のあとがきから気付くことです。

この数年間の投稿詩選評経験から得たことで、殆どの作品が作者の思いで溢れ、当の思いを喚起せしめた情景や事物の質感は見当たらないことでもあった。選評で、私は屡々(しばしば)、事物を描こうと提案しても、効き目は全くなかった。思いを述べるための事物を借りる詩はあっても、事物そのものから衝動を得て詩に向ったと思われるようなものは、実に寥々(りょうりょう)たるものだった。ここでも私は、「意味づけ」の滔々(とうとう)たる作品群に悩まされ、自戒の意味も加って、自分自身を「事物を描こう」とする方向へ押しやることになったらしい。
(吉野弘「叙景」あとがき より)

吉野さんが投稿詩の選者をしていたとき、その投稿された詩の中には、作者の思いを述べている詩が多いということを述べています。
詩の中に「うれしい」「たのしい」「くるしい」ということばが多かったり、自分の気持ちを吐露する詩が多いということでしょう。そうではなく、そのように感じた事象を詩に書けということでしょう。そして、その事象を読んでもらって、事象から作者の思いを感じ取ってもらえということなのでしょう。これが叙事を目指せということなのでしょう。

詩の中に、うれしい、悲しい、たのしいの言葉はいらない。

詩の朗読会で、心情を伝えるために、泣き叫んだり、怒ったりして読むようなケースがあります。昔、「詩のボクシング」というのがNHKのTV番組で放映されていたのを覚えています。2人が自作詩を朗読して、どちらが伝わるかを競うというもの。それに私は違和感を感じていました。ただ感情のままに言葉を叫んでいるようなものもあり、それはそれで「ボクシング」なのかもしれないけれど、ただ読み手の思いをぶつけられても、聞き手がそれに共感できなければ、それは伝わってこないのです。

このことから思うのは、朗読で伝えるということも、事象をシンプルに語るのではないかということです。朗読では、物語の中の心の動き、心情をそのまま伝えるのではなく、相手の心情をふるわせる事象を伝える。物語の作者が感じたことの原因となった出来事を伝えて、その事象を通して、相手に作者の思いを感じてもらうということではないかと思います。

ここで、以前のブログで書いた脳の意識のこと(顕在意識、潜在意識)が関係してくるように思えます。⇒【伝わる朗読とは】1:聞き手側の意識のこと

顕在意識で「叙事」をイメージ化して、その「叙事」を潜在意識に渡すことで、潜在意識のところで「叙情」を感じるというプロセスです。

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コメント

二宮さん

こんにちは。
吉野さんのおっしゃる
「事物」とは
「客観的に捉えなさい」
ということでしょうか・・・。

数年前、何かの本で
世の中は
「詩離れ」が起きているという
記述があったのを思い出しました。
以前は、詩の雑誌がよく出ていたように思いますが、次々と廃刊になっていますね。
(個人的に、詩とメルヘンとか詩とファンタジーなんていうのを好んでました。歳がばれますけど。)
私が子供のころに流行っていた歌謡曲なんかの詞も、言葉は少なかったし、とてもシンプルなものだったけれど、なぜか不思議と
情景が自然と思い浮かぶものでした。

年代的なものもあるかもしれませんが、いつの頃からかJ-POPの詞は(すべてではないですが)言葉の数が多く、全体的に自分の思いを吐露しているものが増えているような気がします。
そういうものに共感をする人もいるとは思いますが、たまにその「吐露」を聞いて
苦しくなることがあります。

話は別になりますが(いつものことでごめんなさい)
以前、視覚障害者の人にむけて文芸書を録音する作業に携わっていたことがありました。
聞いている方には、年をとられて本を読むのが不自由になった方や、中途失明の方など様々ですが、
ある時、生まれつき視覚に障害をもっておられる方と話す機会がありました。
その際に「とにかく文章を読むときに『感情』はいれないでほしい。」
「感情をいれられると長時間聞いていられない」と言われたことがありました。
そのとき私は、では機械音声のようなものもあるので、そのほうがよいのではないだろうかと思ったことがありました。
しかしある視覚障害者の方が朗読に関する講演をしたのを聞いたことがありまして、
その時の内容で心に残っていることは
朗読を聞くのは「食事」と同じで
「余裕のない時、時間のない時は近所のコンビニで買ってきたもので済ませようとするけど、たまにはきちんとしたレストランでゆっくりと、食事と雰囲気を味わいたいと思うことがる。朗読を聞くこともそれとよく似ている。」ということを話していました。
こうした視覚障害者の方の話を聞いた時からか、
私は、朗読者というのは一見、主役のようでいて
そうではないんだということを感じました。
朗読は伝える人がいて、そして伝える手段としての作品には(自分自身が創作したものもありますが)作者がいます。
その橋渡しのような存在が「朗読者」なんだとそう思っています。
そうすると、二宮さんがおっしゃるように
やはり作者の思いを伝えるのが朗読者の役目なのかもしれませんね。
良い作品があってこその良い朗読かもしれません・・・。

自分自身を納得して終了となる文章になってしまいましたが
「伝わる朗読」について模索する旅は続きそうです・・・。

これからも、二宮さんのブログの記事を通して勉強していきたいと思います。

>「事物」とは「客観的に捉えなさい」
ということだと私は思います。
このことに関連して、さらに吉野さんが書いているものがあったので、後ほどブログで紹介します。

>子供のころに流行っていた歌謡曲なんかの詞も、言葉は少なかったし、とてもシンプルなものだったけれど、なぜか不思議と情景が自然と思い浮かぶものでした。

確かに最近のJ-popは、「愛してる」とか「会いたかった」とかの言葉が多すぎですね。しかし、そういう歌が売れるということは、今は、直接的な表現の歌詞でないと意味が伝わらないのかもしれません。ということは、一般大衆(という言い方が適切かはわからないですが)は、言葉から想像する能力が劣ってきているのかもしれないですね。この辺も考えてみたいことです。

また、ネットをさまよっていたら、詩人の方が最近の詩作について批判している記事を見つけました。「最近の詩は言葉が甘い」ということを発端に「詩人が自作の朗読をする」ことへの批判をしていました。朗読との関わりがあるので、これも後ほどブログで紹介してみます。

詩を読むコンクールに出たことをきっかけに、このブログで、詩のことを書くことが多いのですが、私は、どうも詩を書く行為と朗読する行為が似ているように感じています。
詩自体は、言葉を削いで削って、相手の頭の中にイメージしてもらう言葉を紡ぎ出す作業でしょう。言葉が足りないのは当たり前。その言葉で伝えきれないところを使って伝えることが重要な作業とでもいうのでしょうか・・、そんな気がします。
朗読も、語っている部分ではないところで、いかにして伝えられるかというところが大事なのではないかと思います。そんな点で、似ているような気がしています。いや、似ていなくとも、朗読について考えるテーマとしては間違ってないような気がしています。


また、視覚障害者の方のお話のシェアをありがとうございます。

>「感情をいれられると長時間聞いていられない」と言われたことがありました。

ということは、「客観」ということなんですね。
生まれつき視覚に障害を持っておられると、朗読しているお話のシーンを見たことがないのだと思います。そういうシーンをご本人なりに感じるためには、朗読者の感情といった部分は、却って不必要なもの、邪魔なものになってしまうのかもしれません。朗読者の思いを押しつけられる感じなのでしょうか?
私はこういう話を聞いた経験がないですし、そういうフィードバックを知ることができたのは、大事な気がしています。
では、機械音声でいいのかというと、そこには温かみがないので、それはそれで聞いていられないものなのではないかと思っています。

> やはり作者の思いを伝えるのが朗読者の役目なのかもしれませんね。
私はそのように思っています。でも、そうではないと考えておられる方はいるでしょう。
これも、何が正解なのかはわからないのかもしれません。
少なくとも、朗読者は主役じゃないよなーと思ってます。

>「伝わる朗読」について模索する旅は続きそうです・・・。

本当の正解はないのかもしれません。でも、伝えるって何なんだろうと折に触れて考えていると、いつかふっと答えのきっかけが下りてくる気がしています。
お互いに勉強していければよいと思っています。よろしくお願いします。

二宮さん
 お返事ありがとうございます。
二宮さんの文章の中にあった

>生まれつき視覚に障害を持っておられると、朗読しているお話のシーンを見たことがないのだと思います。そういうシーンをご本人なりに感じるためには、朗読者の感情といった部分は、却って不必要なもの、邪魔なものになってしまうのかもしれません。朗読者の思いを押しつけられる感じなのでしょうか?

という箇所を読んではっとしました。
そのように考えたことがなかったです。
あの頃は、とにかく周囲から「感情を抑えるように」といわれることに混乱していたように思います。
伝える相手がいるということが、頭になかったということでしょうね。
伝えるということには、思いやりというか気遣いが大切だということですね。
私には大変努力のいることかもしれません。

今後も、ブログの記事を楽しみにしています。
ありがとうございました。

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